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社会人になって、少なくとも2日に1回以上、しかもいろいろな企業の現場で議事録を書き続けた。
そのなかで、今更ながら「当たり前なこと」に気づかされたので、ここに備忘録がてら記しておきたい。
私は心から「議事録」は大切なものだと信じている。
そして、どんな組織で働くにしろ、「議事録を書く文化を浸透させたい」とも思っている。
ただ、「議事録を書くのは大事」と多くの人が思っているのにも関わらず、いざ会議となると、議事録を書いている人は意外なほど少ない。
中には、全社で「議事録を書きましょう」とルールが定まっている企業ですら、現場の会議では議事録が書かれていないことも。
あるいは、議事録は書いてはあるが、全く機能していないケースもある。
・・・なぜ大事だとみんながわかっているのに、「議事録を書く・機能させる文化」を浸透させるのは難しいのか?
この論点について、今日は考えてみたい。
・・・と、本題に入る前に。
人によっては「たかが議事録でしょ」「なんでそんなに議事録にこだわっているの?」という疑問もあるかもしれない。
(私も昔はそう思っていたし)
そこで、まずは「議事録はなぜ重要なのか?」を簡単に整理しておきたい。
そもそも、議事録はなぜ重要なのか?
議事録が重要な理由は大きく3つある。
意思決定の証跡を残しておくため
一番重要なのは、この理由ではないだろうか。
なぜならば、究極のムダである「言った言わない論争」を最小化できるから。
一度会議で物事を決めたのにも関わらず、しばらくすると「そんな話、聞いていない」と、ちゃぶ台返しをくらう。
その結果、もう一度、全く同じ論点について議論して、意思決定をしなおさなくてはならない。
この時間ほどムダな時間はあるだろうか。
「言った言わない論争」がムダな理由は2つある。
1つ目は、「意思決定に関わっている人数×人件費×時間」分のコストが浪費されるから。
特に、会議に関わっている人が偉い人であればあるほど、このコストは大幅に膨れ上がる。
2つ目は、意思決定しなおしている時間の「機会費用」が発生するから。
意思決定をもう1度行っている間に、本来であればチャレンジできたであろうことが、できない。
これは、目に見えないコストだから、余計に注意を払っておきたい。
以上のようなムダを発生させないためにも、意思決定事項を議事録に明記しておきたい。
(じゃあ議事録に明記さえしておけばOKなのか・・・というと、実はそれだけでは足りない。この点は後でガッツリと触れたい)
次のアクションをクリアにし、関係者に動いてもらうため
議事録が重要である2つ目の理由は、「ゴール達成にむけて、関係者に確実に動いてもらうため」である。
この点を意識できていない議事録が意外なほど多い。
例えば、会議中に出てきた発言を時系列にまとめただけの「発言録」のような議事録を、たまに見かける。
そして、議論のなかで出たアクションや宿題が、発言録の中に紛れ込んでいることも…
これでは、会議が終わった直後に「で、何をすればいいんだっけ?」となってしまう。
理想としては、議事録を書くときは「会議が終わって席についたときに、すぐに関係者が手を動かせる状態」を意識したほうがよいかなと。
会議に参加していない人にも、議論の文脈を理解してもらうため
議事録を書くべき3つ目の理由は、会議に参加していない関係者にも、議論の文脈を理解してもらうためである。
議事録にToDoと決定事項だけが書いてあっても、会議に参加していない人からすると
「なぜ、その意思決定に至ったの?」と疑問に思ってしまう。
この疑問が積み重なると「取り残された感」が徐々に醸成され、モチベーションが低下していく。
そうならないためにも、議事録には「なぜその意思決定に至ったのか?」を簡潔に書き留めておき、「不参加者にもフレンドリーな議事録」を目指したいものだ。
それでも、議事録文化の浸透が難しい理由
ここまで述べてきた重要性があるものの、議事録文化を浸透させるのは想像以上にハードだ。
その理由は、1つは個々人の能力面、もう1つは組織文化にある。
個々人の「議事録を書くスキル」が不足しているから
「議事録をわかりやすく、簡潔に書く」のは、思っている以上に高いスキルが求められる。
具体的には、
- 会議への高い当事者意識を持ち、
- 議論内で飛び交う言語の意味を正しくキャッチアップしながら、
- 議論の構造とゴールを踏まえた上で、
- 短く無駄のない文章で要約する
ことが必要になる。
キャッチアップ力や理解力、文章力、構造化力が高いレベルで要求される作業。
それが議事録の正体である。
この難易度の高い作業を、「明日からやってください」と頼んでも、なかなか実行してもらうのは難しい。
だから、ちゃんと議事録を書く訓練をしておかないと
- 議事録ならぬ「発言録」が大量に作られるか
- 作業の難易度に心が折られて、議事録そのものを書かれなくなるか
このどちらかのパターンになりかねない。
しかし、逆に言うと、辛抱強く訓練さえすれば、議事録を書く力を身につけることはできる。
試しに3か月間、参加するすべての会議で、自分の画面を共有しながら「リアルタイムで議事録を書く」ことを繰り返してみると、あっという間に力がつくのではないだろうか。
その具体的な方法に興味がある方は、以下の記事もご覧いただけると幸いである。
「過去の意思決定を軽視」しているから
議事録文化が定着しないもう1つの理由は、「過去の意思決定を軽視する人」がいるから。
特に、経営層がそういう態度だと、その下のメンバーにまで同じ態度が伝播していき、「過去の意思決定を重視しない文化」になってしまう。
この点は非常に根深い。
・・・どういうことか?
昔のプロジェクト現場で一緒だったAさんと久々に飲みに行ったのだが、そのときに聞いた話を紹介したい。
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Aさんは3ヶ月前、自分の会社の経営層に「組織変革の提案」をプレゼンしたそうだ。
資料を共有し、議事録もリアルタイムで書きながら、議論を進行。
そして、提案した内容の通り「組織変革の検討を進めてよい」と、経営層からGOサインをもらった。
しかし、その3か月後に、組織変革案の進捗を経営層に説明に行ったところ・・・
「そんな話は覚えていない」と言われたと。
Aさんは前回の議事録や説明資料を見せながら、「いやいや、この前説明しましたよね」と丁寧にフォローするも、
その経営層は「何となくそういう議論になったような気もする。しかし、3ヶ月前と今は、置かれている状況も環境も変わっているじゃないか。それに、"議事録に書いてあるから"と説明されても困る」と、さらに反撃してきたそうだ。
ちなみに「3ヶ月前と比べて、具体的にどのような状況の変化があったのか?」について、納得いく説明はなかったとのこと・・・
***
どうだろう、同じような経験をした人もいるのではないだろうか。
私も何度か「"議事録に書きましたよね"と言われても困る」と言われたことがある。
しかし、このセリフが一度でも許されてしまうと、しかも会社のトップがそのようなセリフを普段から吐いていると、どんな結果を招くだろうか?
おそらく、「議事録に書いてあったことは、いつでも覆せるんだ」と思う人が増えるはず。
別に、確固たる論拠があれば、過去の決定事項は覆しても何の問題もない。
「以前に意思決定したときとは、XXと〇〇の観点で、外部環境が大きく変わっている。だから、再び意思決定をしたほうがよい」と、理に適った説明ができればOKである。
しかし、そういう明確なロジックもなく、何となく「以前の気分と今日の気分が違うから」みたいなノリで、過去の意思決定事項を覆すのは、愚の骨頂だ。
なぜならば、冒頭で書いたような「言った言わない論争」からの「ちゃぶ台返し」からの「最初から検討しなおし」という、クソみたいなムダを招くから。
あるいは、あまりにも過去の意思決定をコロコロと覆すと、
「議事録に書いてある決定事項は、さほど重要ではない」という勘違いが広がっていき、
議事録の重要性が認識されない組織になってしまう可能性もある。
あえて極端な表現をすると
「気分でコロコロと決定事項を覆す人(特にトップ層)がいると、議事録文化が廃る」
これが、議事録文化がなかなか浸透しない理由ではないだろうか。
逆に、
「会議で一度決まったことは、きちんと明文化する」
「その決定事項は、よっぽどの説明がない限りは、簡単に覆してはいけない」
という覚悟を持っているトップ層がいる組織もある。
そういう組織では、議事録を簡潔にロジカルに書くことが徹底され、その議事録を拠り所にToDoが進んでいく。
そんな動きがスピーディーに、手戻りや無駄なく進んでいる。
「たかが議事録」と思って油断してはいけない。