「本から読み取った他人の考えは、他人様の食べのこし、見知らぬ客人の脱ぎ捨てた古着のようなものだ」
これは、ショーペン・ハウエル氏の『読書について』のなかで、一番気に入っている文章です。
何とも痛烈な表現なのですが、そのぶん、1つひとつのメッセージが心の奥底に突き刺さる本でもあります。
『読書について』とは?
本書は1800年代に、ドイツにてショーペン・ハウエル氏が書いた本です。
医学部に籍をおきつつ、途中で哲学部へ移り、カントやプラトンを目標に学び続ける思想家だったとのこと。
代表作は『意志と表象としての世界』が挙げられます。
この本は「苦しみに満ちている人間を、生の苦悩から救済すること」をテーマに書かれた本で、氏の根本思想には「苦」の一文字があったとされます。
この負のエネルギーみたいなものは、『読書について』からも感じ取れます。
名指しで他の著者を批判したり、言葉のひとつひとつが鋭利だったりと、文章の隅々から氏のエネルギーがにじみ出ているのが、本書の特徴の一つです。
そんな本書のテーマを私なりにかみ砕くと・・・
「自分で考える人の読書と、考えない人の読書の違いとは?」
これです。
このテーマについて、個人的な解釈も踏まえながら書いていければと。
先にサマリーだけ載せておくと、こんな感じです↓
自分の頭で考えない人の読書
まずは、自分の頭で考えない人の読書について。ざっくりは、以下の特徴があると理解しました。
- 大量に集めて、自分の頭で考えず鵜呑みにした知識を手に入れる
- 学者、物知りとは、書物を読破した人のこと
- 文献から出発し、本から拾い集めた他人の意見を用いて全体を構成する
- 悪書(金儲け目的の本、論旨がハッキリしない本、マニュアル本、平積みされた新刊、二番煎じ本)を読む
- 一回読んで、わかった気になる
…なんとも耳が痛い指摘ばかりです。
例えば、文章力とかプレゼン力を上げるために、新刊やマニュアル本を読んでいましたが、あれらの本はハウエル氏から言わせると「悪書」だそうで。
そしてトドメの一言は、表紙に書いてあったこちらの文章
「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」
毎年300冊以上読んでいることを誇りに思っていた私のマインドを、粉々に砕いてくれました。
しかし、確かにいずれの主張も一理あります。
本を読んで知識を仕入れる時間よりも、自分の頭で考えて実際に行動する時間のほうが、数倍も大事です。
本を読むということは、実践や思考から逃げている、ということ。
そう思われても、しょうがないかもしれません。
私も以前、この本の教えに通ずる指摘をされたことがあります。
コンサル時代のとあるプロジェクトで、仮説検証のためのインタビューをやっていたときの話。
このインタビューがあまり上手くいかずに苦戦していた時期がありまして。
上司から「何が課題だと思う?」と聞かれた私は「インタビューの型や方法論が身についていないのだと思います。もっと本を読んで勉強します」と答えました。
すると上司から「本に逃げるな。君はもう、方法論については頭でわかっているはずだ。実践して、反芻し、自分の血肉に落とし込めていないのが原因だよ。自分でもわかってるだろ」と図星すぎる指摘をいただきました。
「本に逃げるな。自分で考えて、とにかく行動しろ」
上司から教わったこの学びは、まさにハウエル氏のメッセージにも通ずるものがあります。
自分の頭で考える読書
ということで、半分以上「自分の頭で考える読書」について頭出ししてしまいましたが。
せっかくなので、箇条書きでもう一度まとめておこうと思います。
「自分の頭で考える読書」ができる人の特徴は、次の通りです。
- 量は少なくても、じっくり考えぬいた知識を手に入れる
- 思想家、天才、人類の進歩を促す人とは、世界という書物を直接読破した人のこと
- まず自説を立て、自説を強化するために権威筋・文献で学ぶ
- 良書(著者の思想・経験がハッキリ伝わる本、原著、高い評価を得ている本、古典)を読む
→特にギリシャ・ローマの古典はハズレがない - 重要な本はどれも、続けて二度読む
→「事柄のつながり」や「違う側面」が理解できる
ただ多読するだけだと、思考力が弱まる可能性がある。その危険性を指摘している本は、そう多くはありません。
そんな中、このクリティカルなポイントを200年前に見抜いた方がいるとは・・・やはり、過去の偉人からは学べることが多々ありますね。
ずっと新しめの本ばかりを読んでいたので、今年は古典を最低10冊は読んでみようかと思います。