「考えること」よりも「考え直すこと」のほうが重要である。
本書のメッセージを一言でまとめると、こんな感じです。
一見すると、このメッセージには違和感がありますよね。
「しっかり考え抜いたうえで、一貫したビジョンとか方針とか戦略を語りましょう」
「ころころ考えを変えるのは、よくありません」
こう教わることが多いからです。
でも本書は「再考して、自分の考えをよく変えることが大事だ」と言っている。
・・・いったいなぜなのか?
・・・「ころころ考えを変えるのはよくない」という教えと矛盾しないか?
こんな疑問について、本書の感想も交えながら考えてみたいなと思います。
『Think Again』とは?
『Think Again』の著者は、アダム・グラント氏です。
この方は、2014年に出版された『GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代』の著者でもあります。出版当初からだいぶ時間が経ちましたけど、今でも「あれは、いい本よね」と話題に出るくらい、本当に素晴らしい本ですよね。
その著者が、今回、満を持して出した本が『Think Again』です。
しかも、監訳者は楠木 建氏です。楠木氏の本はこれまで何冊も読みましたが、どれも「他の本には書かれていない、筆者ならではのロジック」が盛り込まれていて素晴らしい本です。
そんな楠木氏が監訳されているので、「間違いなく良本だろ」と思考停止して手に取ってみました。
しかし、読み進めていくと「再考して、自分の考えをよく変えることが大事だ」と書かれています。
昔からいろんな人に刷り込まれてきた「ころころ考えを変えるな」という教えと矛盾する・・・この気持ち悪さと向き合わなければなりません。
ころころ考えを変えるのは、よくないのか?
そこで、本書の教えどおり「再考」をしてみようかと思います。
「ころころ考えを変えること」は本当にいけないことなのか?
ころころ考えを変えることが「よくない」場合
自分の頭で考えずに、意見を変える。
これは「よくない」場合に当てはまります。
A課長が「A案がいいね」といったら、自分も「そうですね、A案で行きましょう」と意見を変える。
B課長が「B案がいいね」といったら、自分も「そうですね、B案で行きましょう」と意見を変える。
こうやって、ころころ考えを変えていては、いつまでたっても、どの案でいくか決まりっこありません。
それに、A案になろうがB案になろうが、自分の思考が全く投入されていないので、ただの「やらされ仕事」になります。
「やらされ仕事=作業」になった瞬間、クオリティが劇的に下がってしまう。
思考停止→仕事の作業化→クオリティの低下・・・このメカニズムは、誰もが一度は目にしたことのある光景でしょう。
ころころ考えを変えることが「よい」場合
自分の頭で考えぬいたうえであれば、考えを変えて「よい」。
それが、『Think Again』が言いたかったことでしょう。
では、「自分の頭で考えぬいたうえで、考えを変える」とはどういうことか?
本書の表現を借りると、
- 過信サイクルを自覚し、再考サイクルへと切り替えること
- 自信と謙虚さの均衡点を保ちながら、物事と向き合うこと
この2つのことを意味しているのだと思います。
過信サイクルと再考サイクル
まず、過信サイクルと再考サイクルについて。
過信サイクルとは、以下の流れに陥ることです。
- 自尊心の高さから、自分の考えに確信を持ちやすい
- 確信を持っていると、次の2つのバイアスが生まれやすい
- 確証バイアス:自分が持っている知識や前提から予期するものに視点が偏るものの見方
- 望ましさバイアス:自分が見たいものを見たいように見るものの見方
- 以上のバイアスから「自分の考えは正しい」と是認する(思い込む)
- 「自分の考えは正しい」と是認すればするほど、さらに自尊心が高まる
特に、周りから「優秀だ」「頭がいいね」って言われてきた人ほど、このサイクルに陥りそうなので、気をつけてください。
いや、"周りから「優秀だ」「頭がいいね」って言われてきた人ほど、このサイクルに陥りそう"と思っていることが、そもそも確証バイアスなので、気をつけるべきは僕ですね。失礼しました。
では、過信サイクルにハマらないためにはどうすればよいのか?
以前ご紹介した『OPEN(オープン): 「開く」ことができる人・組織・国家だけが生き残る』の表現を借りると、「バイアスの存在を自覚しておくこと」が大事なのでしょう。
そう考えると、"周りから「優秀だ」「頭がいいね」って言われてきた人ほど、このサイクルに陥りそう"と思っていることが、そもそも確証バイアスだと自覚している私は偉いですね。
・・・何度もこのネタを持ってきてしまい、すみません。もうやめます。
何の話をしていたかというと・・・そうだ。
過信サイクルから再考サイクルへ・・・これが本題でしたね。
再考サイクルとは何かというと、
- 無知を自覚する=知的謙虚さを持っておく
- 知的謙虚さを持っておけば、自分の考えが本当に正しいのか、常に懐疑的でいれる
- 懐疑的であれば、「本当は何が正しいのだろう?」と常に好奇心を持っていられる
- 好奇心があれば、常に新しい発見を得られる
- 新しい発見を得るたびに、「うわー、自分って知らないこと多いなー」と、より謙虚になれる
何とも素敵なサイクルですね。
ちなみに、私が本を読み続けているのは、この「知的謙虚さ」ゆえです。(今度こそ本当に、この冗談はやめます)
自信と謙虚さのバランス
しかし、ここで一つ困り事が出てきます。
あまりに謙虚になりすぎて、自分の考えに懐疑的になりすぎると、だんだん自分の考えに自信を持てなくなります。
監訳者の楠木氏も、次のように指摘しています。
革新はやがて傲慢さに変容し、思考の柔軟性にとってカギとなる謙虚さが失われる。ところが、謙虚すぎると自己肯定感が低くなり、思考における確信を得られなくなる。そこで、確信と謙虚さのバランスが問題となる。
『Think Again』p418より
しかし、筆者はこの「自信と謙虚さ、どっちを取ればいいんだ問題」に補助線を引いてくれます。
「自分のやりかたに対する確信」と「自分自身に対する確信」に分ける。
これが、筆者が提示してくれる補助線です。
自分自身に対しては、「自分は高い能力を持っているんだ」と確信してOK。自己肯定感を強く持っていただいてOK。
しかし、自分のやりかたや考え方に対しては、常に謙虚でありなさい、と。
こうすることで、自信と謙虚さのバランスを取ることができます。
一見すると矛盾する「自信と謙虚さ」を両立させるあたり、筆者の力量の凄まじさが伝わってきます。
板挟みになると、Think Again力が鍛えられる?
そういえば、『Think Again』を読んでいて、思い出した言葉があります。
トヨタ出身の同僚が言っていた言葉です。
「人は、板挟みになっているときに、一番成長する」
確かに一理あるなーと思いつつも、正直ぼくは半分しか納得できませんでした。
板挟みになった思い出は、たいがい辛いものばかりだから。
板挟みになって思うわけですよ。「もう当事者同士で話せよ!」って。
「AさんとBさんの間で板挟みになっているのであれば、AさんとBさんが直接話せばいいじゃん。おれの介在価値なんてないだろ。めんどくせー」
こう思っていたわけです。
でも、『Think Again』を読んでみて、板挟みになる経験の本当の価値に気づけました。
板挟みになると、「自分の頭をしっかり使って再考する経験」を強制的に積むことができるからです。
AさんとBさんの意見が対立している。
そのAさんとBさんとの間で板挟みになったとき。
まずは、Aさんの意見を聞いて「ふむふむ、なるほど」と思うわけです。
次にBさんのところに行って、Aさんの意見を代弁します。
でもBさんからは反論を食らって、その意見に対しても「うーん、確かに一理あるな」と思わされることになります。
そこで、もう1回Aさんのところに行く前に、一度立ち止まって、
「おれはBさんの意見になぜ同意したのだろう?」
「Bさんの意見をAさんに話したときに、Aさんから返ってきそうな反応は何だろう?」
・・・と、同じことを何度も再考すると思うんですよ。
そうやってAさんとBさんに振り回されながら、「くそー、もう当事者同士で話せよ、めんどくせーな」と思いながらも、ちょっとずつAさんとBさん双方の意見を交えた自分の考えが出来上がってくる。
箇条書きにすると
- AさんとBさんの板挟みにある
- Aさんの言うことも、Bさんの言うことも、ごもっともに聞こえる
- 双方の意見を聞いて伝書鳩を繰り返す
- そのうち、早く板挟みを収束させたくなって、自分の持って行きたい方向=自分の考えを持ち始める
- その自分の考えをAさんにもBさんにも跳ね除けられて、もう1回自分の考えを見直す機会を押し付けられる
- 再び、自分の考えをAさんとBさんにぶつけてみる
こんなサイクルを回さざるを得ないのが、板挟みなんだと思います。
こうやって何度も再考しているうちに、だんだんと「再考することへの抵抗感」がなくなっていく。
『Think Again』する土台が固まってくる。
そう考えると、板挟みになるのも悪くないなーと思えてきます。
「もう二度と体験したくないけど、あの体験のおかげで今の自分がある」的なやつですね。
そうやって「板挟み」について再考させてくれた『Think Again』には感謝しかありません。